ヒッラ病院

20日月曜、戦争中も訪れたバビロンの近くのH病院を再訪。米軍のクラスター爆弾により一家族全員が被弾し、その中でも両腕と下半身にひどい傷を受け「ブッシュはテロリストだ・・・」とうめき苦しんでいたあの少年Fの安否を知りたかったからだ。戦争中は緊急事態で各病院からドクターが借り出されていたようで、当時あの家族を診たドクターを見つけられなかったためになかなかFの手掛かりを得ることが出来なかったが、何人か看護婦があの家族のことを覚えていてくれた。聞いてみるとFの父親はバース党員だったらしく、バグダッド陥落直前に少年を連れて病院を脱出してしまい、おそらく今はバグダッド周辺にいるのだろうがどこにいるのかわからないということだった。戦争中サダム政権は特にバース党員に対し、アメリカに対する攻撃が成功した場合、もしくは逆にアメリカの攻撃を受けて住居など破壊された場合に、900万イラクディナール(当時のレートで約40万円くらいだろうか)ものお金を渡していたらしいのだが、Fの父親もそうしてお金を受け取った一人だったらしい。とくにHではそうしたバース党員は恨まれていたようで、サダム政権の終焉とともに殺されてしまうと身の危険を感じた父親が、家族を連れて逃げたに違いないと言っていた。そう話す看護婦達ももうバース党のことは思い出すのもいやといった感じで、あんな連中どうなったってもう知らないとのこと。あの傷の状態で病院から連れ出されたフェラは今どうなっているのだろうか。父親がバース党員だった故の悲劇であろう。イラク復興の影では、きっとこのようなうち棄てられた人々がたくさんいるに違いない。


AL-AMAL聾学校

21日火曜、AL-AMAL(希望)聾学校にパステルカラーペンシルと紙を寄付。日本の子ども達にイラクを紹介してほしいと伝えて、6〜12歳ほどの子ども達11人にその場で絵を描いてもらう。ほとんどの子どもがナツメヤシの木を描いてくれたのが印象的であった。この絵を日本の子ども達に見せて、今度は日本を紹介する絵を描いてもらおうと思う。ところでこの施設には169人の生徒がいるのに、その日は11人しか学校に来ていなかった。聞くとバグダッド市内どこの障害者施設もそうらしいのだが、バスが足りないので通えない子ども達が多いそうなのだ。他にも子ども達に必要なものはたくさんあるのだが、NGOが支援する際には原則として労働省を通す必要があるらしく、申請すると予算から何からあれこれと聞かれた挙句に子ども達のためとはほど遠いところに支援を要求させられるので、どこのNGOも辟易してしまい支援を断念してしまうケースもあるという。サダム時代ならいざ知れず、いまだにそんなことがあるのだろうか。戦後はしばらくそのような官僚体制も崩れたのだが、最近またそうなってきたらしいといってサラマッドが憤っていた。


(写真)AL-AMAL聾学校の生徒たち

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